ロードレーサー「宮澤崇史」とは
ロードレーサー「宮澤崇史」とは、日本テレビの24時間テレビで嵐の相葉雅紀さんが主演し、話題となった「絆のペダル」のモデルとなったといわれる選手です。宮澤崇史さんは、どんなロードレーサーなのか、ロードレーサーとしてのデビュー前から現在までの道のりをまとめてみました。
宮澤崇史のプロフィール
名前 | 宮澤 崇史(みやざわ たかし) |
生年月日 | 1978年2月27日 |
国籍 | 日本 長野県 長野市 |
身長 | 164cm |
体重 | 61kg |
所属 | リオモ・ベルマーレ レーシング(監督) |
宮澤崇史さんは、3歳から自転車に親しみ、野山を駆け回る子供時代を過ごしました。中学時代にテレビで観た「ツール・ド・フランス」に感動し、プロの自転車選手を目指しました。6歳の時に病気で父親を亡くし、母親の応援を受けて自転車競技に打ち込み、高校時代にはシクロクロスの世界選手権に出場し、卒業後イタリアのチームに所属し、ロードレーサーとして歩み始めました。
「絆のペダル」のモデルって本当?
「絆のペダル」のストーリー
世界一過酷なスポーツといわれるロードレースにおいて、第一線で活躍していたロードレーサー宮澤崇史が肝臓を患った母を救うため生体肝移植を行った後、ロードレーサーとして第一線に復帰するのは困難とされる中、奇跡的に復帰するまでの軌跡を描いています。
ロードレーサー宮澤崇史の経歴
宮澤崇史さんは、1995年高校時代にシクロクロス世界選手権(ジュニア)に出場し、高校卒業後、2年間イタリアへ留学しました。1997年にツール・ド・おきなわで優勝後、数々のレースで優勝を経験し、1999年と2000年は競輪学校受験のため、競技から離れました。
宮澤崇史の母が倒れる
1999年の宮澤崇史さんが21歳の時に、母が肝臓の病気で倒れてしまします。宮澤崇史は、母を救うために自らの肝臓提供を申し出ます。手術をしたらプロへの復帰は不可能と告げられていたため、母は拒否しますが説得し、2001年に肝臓の3分の1を移植しました。
宮澤崇史が生体肝移植をした理由
宮澤崇史さんが生体肝移植をした理由は、6歳の時に病気で父を亡くし、女手一つで育ててくれた母の喜ぶ顔が見たいからです。また、母が病気で亡くなってしまったら、自転車競技を続ける意味がなくなってしまうから生体肝移植をしました。
ロードレーサーへの復帰とその後
2001年、宮澤崇史さんは日本鋪道レーシングチーム(現NIPPO・ヴィーニファンティー二)に復帰後、チーム・ブリヂストンアンカーに加入も、術後の体力低下の為成績が振るわず振るわず解雇になりました。その後、2004年に単身でフランスに行きアマチュアから再スタートをし、再びプロに復帰します。その後、アジアチャンピオン、北京オリンピック代表を経て、32歳で「全日本選手権ロードレース」で優勝しました。
36歳で現役を引退
宮澤崇史さんは、2014年に18年の海外でのロードレース活動を経て、36歳で現役を引退しました。
宮澤崇史の現在の活動
宮澤崇史さんは、現在ビオモ・ベルマーレ レーシングチームの監督をしています。また、レース解説、選手育成、自転車イベント出演など自転車競技の発展に努めています。さらに、生体肝移植後プロ復帰に成功した世界で唯一のアスリートとしての経験を活かし、教育や医療分野での講演会、チャリティー活動など多数行っています。
ロードレーサの聖地(イタリア ステルビオ峠)
ステルビオ峠は、スイスとイタリアの国境に面した地域にあります。ステルビオ峠は、世界中のサイクリストがリスペクトする伝説の峠です。道路幅も狭く、決して安全な場所ではありませんが、その美しい景観を一望するために、サイクリストのみならず、一般の観光客も多く訪れると言われています。宮澤崇史さんは、引退後の2018年に、ビオモ・ベルマーレ レーシングチームの監督をする傍ら、ステルビオ峠に訪れサイクリングを楽しんでいるのを、本人のブログに綴られています。
ロードレーサー宮澤崇史の戦歴
1995年 シクロクロス世界選手権(ジュニア) 22位
1997年 ツール・ド・おきなわ 200kmレース 優勝
1998年 全日本実業団選手権・いわき大会 優勝
2004年 国民体育大会 個人ロードレース・成年の部 優勝
2006年 ツアー・オブ・ジャム 第四ステージ(タイ) 優勝
ツールド・ランカウイ 第一ステージ(マレーシア) 3位
ツール・ド・北海道 第二ステージ 一日総合首位
ジャパンカップサイクルロードレース 7位
ツール・ド・おきなわ チャンピオンレース 優勝
2007年 ツアー・オブ・ジャム ポイント賞 獲得
ツアー・オブ・ジャパン 第一(大阪)ステージ 制覇
アジア自転車選手権・個人ロード 優勝
UCIアジアツアー 個人総合 3位
ツール・ド・おきなわ 優勝
2008年 アジア選手権・個人ロードレース 3位
北京オリンピック 男子ロードレース 86位
ツール・ド・北海道 個人総合優勝
2009年 ツール・ド・北海道 個人総合優勝
2010年 ツール・ド・台湾 第三、第四ステージ勝利 ポイント賞獲得
アジア選手権・個人ロード 2位
全日本選手権ロードレース 優勝
2012年 ツール・ド・ピカルディ(フランス) 第一ステージ2位、総合5位
2013年 グランプリ・ド・ドナン(フランス) 総合5位
2014年 GPイゾラ 5位
ツール・ド・台湾 第五ステージ 4位
アジア競技大会ロードレース 4位
ツアー・オブ・チンハイレイク 第一ステージ 5位
ジャパンカップサイクルロードレース 出場
ロードレーサー 宮澤崇史のペダリング
一般的に、自転車は足に力を入れて踏み込むことで前に進みます。しかし、宮澤崇史さんのペダリングは「力を使わないペダリング」であり、ペダルに体重を乗っけるだけで前に進むと言われています。無駄な力を掛けることなく、負担なく自転車を漕ぐ「ただガムシャラに頑張る」だけではない、技術的にもとことんサイクリングに向き合い続けた、宮澤崇史さん独自のペダリングです。
ロードレーサー 宮澤崇史の諦めグセとの向き合い方
宮澤崇史といえば、手術後プロに復帰した努力家のイメージですが、昔は諦めグセがあったそうです。諦めグセの克服の秘密はスティッキーボトルにあります。スティッキーボトルは、ロードレースの専門用語で、車に乗っている監督から選手にボトルを渡す際に、選手がそのボトルを掴んで、そのまま引っ張ってもらう反則行為です。しかし、このスティッキーボトルが、練習中の本当に苦しい諦めかけた時には効果があったそうです。
まとめ
来年も良きチャレンジを pic.twitter.com/Rgy22kCRXe
— 宮澤崇史 (@Bravotakashi) November 11, 2019
宮澤崇史さんは、「絆のペダル」のモデルなのは本当で、プロとして活躍中に生体肝移植の手術をしたあと、プロに復帰した唯一の選手です。プロ引退後も、監督やレース解説、チャリティー活動など、ロードレースに関わり、今後も注目される人物でしょう。
ドラマと本人のストーリーが一致することから、「絆のペダル」のモデルとなったのは本当といえます!